歴史上の名称議論とかで「よく地元では現在はこう言われている」という論で反論してくる人がいます。


しかし、そういうのは私の経験や調査から全く決定打になりません。

というのは私は加賀の富樫氏が最後に本拠にした高尾城跡の近くに住んでいるのですが、

何でもここは昔は「タコォ」と発音したそうです。

ところが現在は「高尾城」も「高尾町」「高尾台町」も全て普通に「たかお」と発音されているのです。

「地元の現在の発音が史学的な論争には全く意味をなさない典型例」なわけです。


また沖田総司は「おきたそうじ」が正しい読みですが

沖田の子孫の家では「おきたそうし」と言っているとか言って反論した人もいますが

それは意味のなさない反論です。

「伊達家は昔はイダテと発音され、伊達政宗も本当はイダテマサムネだった」も事実ですが地元では誰も「イダテマサムネ」なんて言ってないようです。


なんていうか、そういう「相反するをそうはんすると読む」とか「重複をじゅうふくと読む」とか

そういう慣用表現化とか簡略化ってのは「周辺から」よりむしろ「真ん中から」始まるわけです。

日本の言語は京都を中心に円心上に言葉が広がっていくわけですし、

関西弁のみならず西日本でイメージの強い助動詞「や」にしろ幕末に女性言葉として流行したのが始まりだそうです。


ですので「地元では現代はこう言われている」「子孫はこう表現している」は決定打には全くなりません。

こういう主張をする人は多分「地元や生家でこそ正しい発音やニュアンスや情報が残り伝わっている」と考えているようですがまるきり逆で

「奇妙な発音とか意味とか表現」ってのは地元とか一族の間でこそ、まさに真っ先に使いやすい表現や都合の良い情報に変化してしまうからです。

言葉ってのは根源の地から最初に変化するのですよ。

そういえば口避け女に関しても全国発祥の地である岐阜県から最初に終息に向かったなんて話しもあります。